大正生まれの父はまだまだ元気!?
百歳近いのに有り難いことに元気で一人暮らしをしてきた父。
毎週、父の元へ行き、体調は大丈夫か、危険なことはないか、何か困ったことはないかと尋ねると、
体調、気分が少し悪い時は「もう年齢も年齢だから、子どもの言う通りにして、施設でもどこでも行きたい!独りではとても不安だ!」と言うものの、
体調や気分が良くなると「ずっと自由でいたい!余計な心配は却って迷惑!」と言われる始末!
自分自身を振り返っても「絶対!」「一生かけて!」「間違いなく!」なんて言葉を使っても、
守れたためしがないのだから、百歳近い高齢の親が「朝令暮改?」、
約束したその日に言葉を翻しても、ある面、自然なことなのだろう!
父への贈り物はいつも難しい!
そんな困った父に、「贈りもの」はほぼ無意味!
大正生まれの父、東京の神田神保町、貧乏長屋で育った父に高級な物を贈っても、
そもそも、それを評価したり有り難がる気持ちは極めて薄い様に思われる!
一方、「モノ」に対する執着はないのかと問われれば、そんなことはなく、
戦中戦後の物資がなかった時代の「甘い物」、特に「砂糖」がなかった記憶が
強烈だったらしく、近くのスーパーで「砂糖」の安売りがあると、
必要もないのに買い溜めしてしまう由。
また高度経済成長時代、戦後から一転して「モノ」が溢れ始めた時代に
現役世代としてバリバリ生き抜いてきたことからなのか?
いわゆる「百均モノ」には異様に魅力を感じるらしく、
「安い!」と思うと例えばプラスチックの衣料用ハンガーを大量買して、
使わないまま段ボール箱にしまっている。
最近喜んだ贈り物は「無料の情報誌」
そんな父にも何かしら喜んでもらいたくて、あれやこれや考えて贈り物をするのだが、
最近特に喜ばれたのは父が生まれ育った東京の下町、学生街、古書街の神田神保町の
千代田区が作っている「小さな町の情報誌」。
千代田区、行政が作っている情報誌なので、区役所等で配られており、
プライスフリーのもので、現在の町の様子や地図に加えて、
何十年前の思い出の寄稿も掲載されている。
妻が千代田区に行った際に見つけてきて、「お父さんに!」と言われて持参したところ、
出るわ出るわ!「ココは昔は〜だった!」「あそこは確か〜だった!」とオンパレード!
父の神田神保町と昭和40年生まれの自分の神田神保町
自分が知っている半世紀前、当方が物心ついた頃の神田神保町は住んでいる人をあまり見ない、
何となく寂しそうに見えた東京の下町。
一方、父の幼少時代は映画館がいくつもあり、交通の要衝だったとのことをイキイキと話をしてくれる。
また今ではコンクリートだらけで、動物、生き物など、その存在をほぼ感じられない地域で、
ドジョウを沢山とってこれる場所もあり、取ってきた日は「ドジョウ鍋」にされたとか。
地名も神田神保町はその昔は「猿楽町」と言う地名で、長屋だらけのエリアで
祖父と祖母は出会ったらしく、そのまま神田神保町に50年以上住み続けた!とか、
話は止まらなくなった。
そのタウン情報誌はB5サイズの小冊子で、良く編集されており、それはそれで素敵なものだが、
こんなに喜ばれるとは!?と驚いたが、
考えてみれば百歳近くになっても、幼少期、青春期の思い出は大切な思い出であったろうし、
まして激動の昭和初期となればその記憶も良くも悪くも鮮明に蘇るのであろう!
父の神田神保町、ツムナス・フォトブックに!
今、そのタウン情報誌から出てきた話を集めて、
昔の地図や写真、新聞記事等々を集めて小さなフォトブックを作った。
千代田区が作ったタウン情報誌ではなく、実の息子が父親から聞き取った
父が生まれ育った東京都千代田区神田神保町の今と昔の様子。
小さい頃は映画館も裏からこっそり入れて見せてもらえた、
水道橋の駅は昭和初期でも高架にあった、
その水道橋駅の隣にある神田三崎神社のお祭りは賑やかで楽しみだった、
また、その水道橋の駅に大空襲の後、立った時神田神保町はまさに焼け野原だった、
等々、まだまだ出てくるであろう「思い出」や父の「思い」を
写真や短い文章に残すことで、父だけでなく自分や家族にとっても
大切な記憶が共有されるのではないかと期待している。